いつか立山に連れて行ってくれ
私の実家は石川県の輪島市と言う田舎町。 観光地の為皆さん一度は聞いたり
訪れた事がある方が多いと思います。
私もそうですが、終着駅とか岬の先端とか旅の目的地として選ぶことが多い。
そんな輪島に18歳の高校を卒業するまで育ててもらった。
生まれ育った町は輪島市内から更に山奥に引っ込んだ小さな小さな町と言うか集落。
小学校に入学したとき、たった一人の入学式。 と言った事で新聞に載ったことも
あったほど。(笑)
木造校舎の教室からは、能登半島の山並みと海岸線が見下ろす事が出来、四季折々の
景色が満喫できる場所だった。
その中でも秋の紅葉が見事で、山の頂上付近から紅葉が下りていき海岸の青と白波が
コラボして、その景色に惚れ惚れしていた幼少期の自分がいた。
一番きれいな景色が訪れる最高の季節になると、両親が出稼ぎに向かい
淋しい季節がやって来るという事も分かっていた。
山のってっぺんから白い雪が粉砂糖を振りかけたように彩を加え、日本海は
しだいに鉛色の景色へと変わっていきます・・。
父、松吉さんの口ぐせ
あまり口数の多い人では無かった私の父松吉さん。
父親とは、男とは、人とは、生きていく事とは、、、。こうゆう事なんだぞ!
と行動で見せてくれる大人でした。
私にとって、『今でも生き様の教科書』の様な大事な人でした。
町の多くの方がお金にならないから。 と言って撤退していく事業であっても最後の
最後まで納得いくまで辞めない人でした。
何度か病気をして入院した際に、好きだったタバコもやめ、看護師さんも脱帽する位に
リハビリに励み後遺症を全く感じさせない位に復帰して退院した。
大の病院嫌いな人でした。
そんな松吉さんが私が高校生の頃から、事あるごとに言う言葉がありました。
『ひろゆき。一度でいいから立山に連れて行ってくれ!』
私の町から少し登った高台から、富山湾の向こうにある立山連峰が見えました。
丁度今時分。6月ごろまでは白くてカッコの良い山並みが見えるのです。
私もその景色が大好きでした。 その為か今でもアルプスが大好きで、山の頂が
見えるとつい写真を撮っている自分がいます。

この写真はだいぶ時間がかかりましたが
父親松吉さんの願いを叶えた
立山アルペンルートでの写真です。
高校を卒業して20年かかってしまいました。
両親にしてあげれたことと言えばこの一枚
の写真に納まった松吉さんの笑顔。
あまり家から出たがらない父親でした。
『この時は率先して支度をしていた。』
と、亡くなった兄が生前よく言っていました。
『俺がどれだけあそこに行こう!と言っても聞く耳を持たない父が
なぜ、ひろゆきの言う事はすんなりと聞くのか意味が分からない。』 と。
もし理由があるとするならば、『俺が言った事を忘れていなかったんだ。』
と言う事でしょうか?
立山に連れていく意味
松吉さんが『いつか立山に連れて行ってくれ!』 と言っていた意味がありそうな
気がします。
立山の黒四ダムを作るにあたっては、大勢の方の努力と無い所に物を作っていく
『開拓精神』みたいなものを感じます。
NHKの「プロジェクトX」 でご覧になった方も多いでしょう。
または中島みゆきさんの紅白歌合戦で唄った「地上の星」をイメージする方も
多い事でしょう。
昭和31年(1956年)黒部峡谷の標高1350メートル地点に幅492メートル
高さ186メートル、出力25万キロワットの黒四ダム。延べ1千万人が関わった
壮大なプロジェクトで、現場監督には間(ハザマ)組 中村 精さん47歳が指揮した。
NHKプロジェクX 挑戦者たち
https://ja.wikipedia.org/wiki/プロジェクトX…
中島みゆき 地上の星
父親松吉さんも戦後生まれで苦労をしてきたに違いありません。
米粒一粒を無駄にしない人でした。しかし小さなことでどうこう言う人では
ありませんでした。私にとっては『人としての生き様』 でした。
言葉ではなく、見せて頂いた。 と言う気持ちでいっぱいです。
と考えると、私が長男に『拓』と名付けた事。 この立山に行ってから
長男幸村君の作文を見た時に「私の名前が開拓の拓と言う字で道なき道を自分で
切り拓くと言う意味が込込められている。 と言う事が分かりました。」
と書いてありました。
その想いは、松吉さんの願いだったのかな? とふと、感じます。
今年も父の日が近づき、自分は何もしてあげれなかったな。 と反省しつつ
息子達から優しいメッセージや食事に招待して頂き、幸せ者だなと、
心底感じるひと時です。 感謝です。
亡き両親。祖父母。兄。 家族の皆さん。見て頂けていますか?
ひろゆきの子供たちは上手に育っていますよ!
生まれて来たことに感謝しています。 ありがとう!
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